
100歳のアブラハム妻のサラは90歳の夫婦に子が与えられ、夫妻が希望と喜びの中にいる時、主はその愛するひとり子イサクを捧げよとアブラハムに命じられました。アブラハムは何故神はそんな事を命じられたのかを考えるよりも、命じられた通りイサクを捧げたらサラは気が狂ってしまうとか、神の約束はどうなるのか、人々は何て言うだろうかなどと考えた事でしょう。主はアブラハムを試しながらやがてご自身のみ子をあの十字架で全ての人の罪の贖いの代価として殺される事を思われていたのでしょう。
アブラハムは直ぐに従ったのです。翌朝早く彼はイサクを連れ3日の道のりを経てモリヤの山に向かいました。しかし何とアブラハムには偉大な信仰がありました。共に居た若者たちに「私とイサクは礼拝しそして帰ってきます」と言ったのです。アブラハムは主がイサクを捧げても甦らせて戻してくださると信じていたのです。何と言う信仰でしょうか。
そのような偉大な信仰をアブラハムはいかにして持ち得たのでしょうか?アブラハムはどこに行くのかも知らずに故郷を捨て出てきました。祝福され財産が増えロトと別れる時も主に信頼してロトに選択の優先権を与えました。主が燃える火で血の契約をされ、星のように子孫を増やすと言われ、アブラハムは主の偉大さをいつも見てきたのです。私たちもいつも魂に主を据え、主の心と思いを深く知るようになりたいものです。
私たちも私たちの最も大切なものを捧げるようにと言う試練がくるかもしれません。主ご自身を最も大切な存在としていないと、果たして主を第一としているか試されるのです。
主を第一としていたら主の命令と指示に直ぐに従いましょう。主が私たちの心の奥底を見極められたら試練は過ぎ去るでしょう。